こまどりロビン教育科

中学・高校の教育関係を中心に、実感と事例を挙げながら書いていきます

中学生は「ちょっと大人」に憧れる

中学生は人生の礎石がまだ積み上がっていない状態で入学してくるから、じっくりと積み上げてやる必要がある。みなさんも、中学校1年生の頃の担任の話は妙に覚えているような……、とかそんな記憶はないだろうか。

もちろん学習活動や部活動を通じて積み上げることは大事なのだが、意外と効果があるのは「語る」ことである。担任の教員が丁寧に、人生の礎石となる重要な価値観を日々語ってあげることが思ったよりも効果があるのだ。

はてなブックマークなんかで知的なコメントしてる人たちはすぐに「そんなの意味ない」とか言い出しそうだが、これは実際現場でやってみると本当にクラスの雰囲気が良くなっていくものであることを実感する。「語る」って意外と大事なのだ。

ただ、子どもはそんなにバカではないから、先生が適当なきれいごとを言ってきているなというのは的確に見抜いてくる存在でもある。また、いかにも「中学生向けの内容だよ~」ということに関しては斜に構えて見てくる。いちばん効果があるのは「ちょっと先」の先輩の話だ。

みなさんも経験あるだろうと思う。子供というのは、いつでも大人の世界にあこがれて、それの真似をする。高校生の・大学生の間ではやっているものは無条件にかっこいいように思えるし、大人の中にこそ自分の憧れを見つけ出す。大人が子供向けに作ったものを的確に見抜いてバカにする能力があるのだ。

だから、文部科学省とかが作っている中学生向け啓発ポスターとかで中学生がまんがで書いてあるやつ、あれ、全然意味ない。「ハハン、大人が子供向けに作ったやつね」と鼻であしらわれて終わりだ。

だから、中学生に語る話も、中学生向けのためになる話だよー、ってスタンスで話すよりも、「君らの人生の将来に大事なことを伝える」というスタンスで、偉人や社会の成功者を引き合いに出して、話をした方がよっぽど説得力があって食いつきがいい。

「アクティブ・ラーニング」の意義がいまいち分からない人のために

ちょっと知られた話ではあるが、教員はキャリアを積むにしたがって「何を教えるか」から「どう教えるか」、そして「生徒はどう学んでいるか」に視点が移っていくという。これはけっこう正鵠を得ている。

教員の成長三段階

教育実習生~1年目ぐらいまでは何を教材として取り扱ったらいいのか、どうストーリーを作るかで悩み、毎日てんやわんやになるが、3~4年すると基本的な筋道が身についてきて、授業内でどんな技を使うか、生徒の興味をどう惹きつけるかに意識が向くようになる。

しかし6~7年目になると、いくら教員側が手を変え品を変え興味を引き付けても生徒の学ぶスタンスがさほど変容していないことに気が付き、生徒が「学び」に向かうにはどうしたらいいかを考え始めるようになる。

これはもちろん教員でなくても、普通に感覚が高い人ならだれでも気が付くことで、例えば講演会で全国を飛び回っている著名人なんかでも「聴衆は毎回違うのに自分の講演の内容は毎回一緒でいいのか、問題なのは聞きに来る側の姿勢なんじゃないか」など思ったりしているようである。

学びの主導権はどこにある

そうなのだ。教員がどう教えるかの技術を突き詰めすぎると最後には、「落語家」のようになってしまい、授業の主役が先生になってしまうのだ。本来、授業での学びの主役は生徒でなければならないのに、学びの主導権を教員が握ったまま自己満足してしまい、それに気づかないまま行き詰まってしまうのだ。

よく、「授業技術は無いが怒らない先生」と、「授業技術がある普通の先生」の間で成績格差がほとんど無い、という現象があるのだが、これはこの理論に照らせばすぐわかる。前者のクラスでは生徒があきらめて自分たちで学ぼうという意識に移っているのに対し、後者のクラスでは生徒たちは勉強もしてないのに分かった気になって自ら学ぶ姿勢が育たなかったのである。

こういったケースではむしろ教員は生徒から「奪って」いるのだが、教員自身は「頑張った!達成した!」と思っているのでこの困難さに気づくのは難しい。

そこで台頭するアクティブ・ラーニング

しかし困ったことに、日本の教育行政では「何を教えるか」を規定した決まりしかないため(学習指導要領)、「どう教えるか」「生徒はどう学んでいるか」は特に意識しなくても、とりあえず給料は淡々ともらえてしまうのである。まずここが一つ目の問題。

続いて「どう教えるか(教え方)」がうまい先生は生徒の支持もあるから学級運営で大コケすることも少ないし、保護者の評判も悪くなく、学力も下げさせずに教員生活を送れてしまうので、非難されることはまず無い。生徒が「学び方」を学ばずに卒業してしまうことは教育過程においてそれなりの損失なのだが、それほど大きな声では指摘されない。これが二つ目の問題。

そこでいま大ブームとなっているのがアクティブ・ラーニングである。
アクティブ・ラーニングって何のためにやってるの? と思うひとも多いと思うが、端的に言えば学び方を学ぶための手法、学びの主体としての「生徒」を取り戻すためのはたらき、と言っていいと思う。生徒たちが毎回の授業の50分を「自分たちのもの」と意識して過ごすための各手法である。

佐藤学の「学びの共同体」も、西川純の『学び合い』も、突き詰めてたどり着くところはそこである。教員ではなく生徒が授業の主人公たるべきである、という思想の結実だ。「一過性のものでは?」と思っている人も多いと思うが、これはかなり違う、各方面の教育学者や現場教員が、日々痛感していたことの着地点だからこそ、こんな地盤が大震動したような動きになっているのだと思うし、この実践方向が急転換することもないだろうと思う。

最後ちょっと感じ悪く

 教育業界に身を置かない人だと、「生徒はどう学んでいるか」を肌で感じる人は少ないので議論が「何を教えるか」「どう教えるか」に向かいがちであり、高校で行列を教えないのはどうの、円周率が3なのはどうの、と初段階的な議論に終始しがちなのだが、学校教育という構造はそれだけ構成されるものではない。

「教室」という単位でどんな精神作用がここに働くことが最適なのか。そこまでを考えてぼくたちもあれこれ実践をしているわけなので、もう少し暖かい目で教育業界を眺めてほしいなあと思っている。