教育はネットワークとしてしか存在しえない(のか?)
医療はネットワークとしてしか存在しえない
以前、「医療はネットワークとしてしか存在しえない」という記事を読んだことがある。救急搬送の患者が断られたことが世間でかまびすしく騒がれていたころだ。
正確には覚えきれていないのだが、論旨としては、医療サービスというのは地域に医療ネットワークを構築することが第一の目的なのだから、個別の患者を受け入れられない事態が生じたことを理由にして医療サービスの第一目的が達成されていないように言うのは少し違うのではないか、ということだった。
ちなみに医療ネットワークとはというのは、個人医院、中規模、大病院・大学病院が、それぞれの特性を生かしながら連携をとり、なるべく多くの人間に程度に応じて適切な医療サービスを提供できる状態である(らしい)。
これは一定の説得力がある意見だった。個人の視点からは、なるべくいい医者、自分の病気を明快に治してくれる医者に出会いたいものだが、現実的な医療行政のゴール地点がここになるのは当然のことだろう。
たとえばもし医療サービスの批判をするとしたって、個別の患者が収容できなかったことを批判するのではなく、医療ネットワークの不備を批判した方が、最終的に救える患者の総数も多くなりそうだ。そのように想像してみれば「ネットワークとしての医療」という概念の力強さには納得せざるを得ない。
さてこのことを話題に出したのも、教育サービスも同じような基準に照らし合わせて考えることができるからである。
社会権は法律の「プログラム」として規定される
「プログラム規定説」という有名な説をご存知だろうか。
簡単に言えば、国家による社会保障というのは法律や制度の整備によって保障されれば十分なものであり、個別な個人の生活までを具体的に保障せずともよい、という学説である。生存権(生活保護など)の文脈でよく出てくる話だ。これに従えば、先ほどの医療サービスの件も、個人がどこでも基本的な医療サービスを受けられるネットワークがあれば、国家は責任を問われないということになる。
これと同じように、教育サービスも社会権の一種であるから、プログラム規定説を当てはめて考えることができる。具体的には、学齢に達した生徒を収容する施設と、それを指導する教員、および学校を運営する職員を確保し、ネットワークを構築すれば、国家として適切な教育サービスを保証したことになる。
いやいや、それでいいのかよ、と思うかもしれない。
しかし、世界にはこれさえも保障できていない国家は山ほどある。中学や高校で数学や理科を教えられるぐらいの知識があれば、もっとかせぎのいい職業につけるのが普通なのだ。おかげで、日本からの青年海外協力隊は、いつでも理科教員の募集が全職種中第一位である。世界では教員はつねに不足なのだ。
それに比べれば、日本では教員の社会的地位や給与が比較的高いこともあって、常に競争率があるレベルで人材は集まっている。最近は学力調査の結果も良く、国家としてはかなり教育行政がうまく機能している方であろう。
しかしそれなのに、世の中の不満のパワーがすごい。個別の個人が自由に文句を言っていい空気になっているからだ。
教育だってネットワークだ
「無責任だ、無責任だ」それを合言葉に迫ってくる人ばかりである。これはかなわない。
やはり、そもそも責任の範囲を明確にすべきであろう。個別の児童・生徒に関して、各人の親が「私の思う教育機関の責任(および国家による教育を受ける権利)」をそれぞれの機関に要求したのでは持ちこたえられるはずがない。いつまでも「お人好し機関」でいてはいいかげんダメなのだ。
各教育委員会でモンスターペアレント対応マニュアルや講習を開く前に、そもそも教育を受けさせる権利を国家や自治体はプログラム上はかなりのところまで果たしている、ということを少し胸を張って主張してみてもいいのではないかと思うのだ。