こまどりロビン教育科

中学・高校の教育関係を中心に、実感と事例を挙げながら書いていきます

守ってあげたくなるセンター試験

大学入試共通テストの目玉とも言える「民間英語試験活用」「記述式出題」の2大方針が次々と中折れしてしまい、ここ5年ほどこの制度の導入にむけて気持ちを前のめりにして現場にいた身としてはがっかりこの上ない感じである。日本の教育の行末はどうなってしまうのだろうか……

新聞などの報道を見ると、ちぐはぐな印象を受ける。

現在の日本の教育の問題点については、きちんと論ぜられている。
次の時代に望まれる教育のあり方も、具体的な報道がなされている。
グローバリズム、問題解決型学習、ICT活用、などのキーワードで表される21世紀に移り変わるための、いくつかの重大なポイントだ。

しかし、大学入試のシステムとなると、一転、公正性や機会均等性の議論が席巻して「新時代の教育とは」の議論をかき消していく。

 

センター試験」という捕縛

理由は明白だ。ひとつに「教育が変わらない原因は大学入試が変わらないから」という根本の病理を社会全体が共有していないことであり、議論のスタート地点がどこであったかを見失ってしまっているからだ。

文部科学省副大臣だった鈴木寛・東大教授も繰り返し力説しているが、中等教育を世界の先進国標準に置いていかれないものにすること、これが議論のスタートであり、そのためには、最大の障害となっている大学入試(特にセンター試験)も一体となって変えないと改革は実現できない、というのが改革の基本方針だったはずだ。

実際、カリキュラムを変えてどんな工夫を凝らした教育内容を盛り込んでも、結局センター試験で点数を取らなければ生徒に進路を開いてあげられないという現場の閉塞感は非常に強いものがある。センター試験の拘束力があまりに強すぎて、その功罪の「罪」の部分が中等教育にとっての毒として浸透してしまっているのだ。
しかしこの状況が想定以上に社会全体にに認識されていない。マスコミはこれこそをもっと報道して欲しい。「一にも二にもセンター試験」という現場の行き詰まりを救おうという基本方針が改革の着手点にあったのに、それが進まなかったのは、日本の冬の風物詩のようになってしまったセンター試験の罪の部分への眼差しが報道に欠けていたからではないかと思う。

 

スケールデメリットをどうにかしてやれないものか

現場でもどうしたらいいんだという議論がよく盛り上がるのだが、センター試験のような大規模試験で学生選抜を行うことへの要求度をもう少し下げたほうがいいんじゃないか、というのがみんなの共通した想いであるように感じる。もはやスケールデメリットの方が大きくなっている。

従来のセンター試験にも良いところはあったわけで、そこで実現できていた価値が損なわれると「価値が損なわれた!」と叫ぶ人が現れてくる。こうして改革は進まない。停滞する巨大組織の病理そのものだ。
そりゃセンター試験をやめることで「センター試験で測れていた価値」が測れなくなるのは当然のことだし、一種の循環論法でしかないように思えるのだが、センター試験を経てきた旧世代に訴える力が非常に強いため、世間がそれに流されていくような雰囲気を感じる。
企業人のひとりひとりに「あなたの企業ではセンター試験の得点を人材採用基準として重要視しますか」と問うたら、おそらく総体として肯定的な返事は返ってこないように思えるのだが、なぜだかセンター試験それ自体は責められない。
実際には、システムが肥大化しすぎて、ちょっとした改革すらできなくなっている病巣のような存在ですらあるのだが。

おそらくこのスケールデメリットは大学入試共通テストになっても続くだろうと思う。

 

ガラパゴス化する日本の教育

ではこの先5〜10年、教育はどの方向に向かうべきなのかという点だが、教育改革の向かうべき方向はある程度共有されているように思える。いつまでも詰め込み知識再現力を競っている時代ではなないだろうと。

でも当面、国家的な政策には期待できないかなという気がする。世界競争に負けないための方針を打ち出しても「離島の子供たちには無理」の理論で潰えてしまうわけだから、もっと細分化された共同体(地方自治体や私立学校)の単位でしか実効的な教育は施行できないのだろうと思う。

しかし国家的には日本は間違いなく教育的ガラパゴス化の道を選択することになってしまった。
これが次に開かれる機会はいつ来るのか。
外圧しかないのではないか。iPhoneガラケーの市場を一新したように、海外からの強い外圧がない限り刷新されることはないのではないかという諦観が僕の中にはちょっとある。

ぼくは自民党に投票していた。政策のことは知らないが。

ツイッターでは自民党へのヘイトであふれているのに、実際に選挙になると自民党がそれなりに勝つ。

そして「誰が自民党に投票しているの?」というコメントがぞろぞろと出てくるわけだが、少なくとも僕はある程度の時期までは自民党に投票していた。

理由は簡単にいうと、民主党政権に失望しまくっていたからだ。安倍首相が選挙運動になると「悪夢の民主党政権を思い出して」というフレーズを使って活動しているが、安倍政権を取り戻した勢いとなった人たちがどのような人たちであったかを知り、かつその層の心を的確に突く表現だなと思う。

そしていまだに安倍政権が維持されている理由は「炎上耐性の強さ」に尽きると思う。ちょっと考えてみたいと思う。

 

国政にとって一番悪いこと

僕は国政にとって一番悪いことは「首相と内閣がコロコロ変わること」だと思っている。外交を通し、世界の諸国と渡り合うことで国家の地位を安定させなければならない現代日本において、トップ層がころころ入れ替わることほど国益を損なうことはないのではないかと思う。いくら外交官が有能でも、国のトップがすぐに入れ替わるのでは軸を定めた外交ができないであろうことは想像に難くない。これは多くの国民が同じ気持ちでいるのではないかと思う。

だからこそ小泉さんが辞した後の安倍・福田・麻生とコロコロと首相が入れ替わった時代の自民党に対して選挙の結果は芳しくなく、政権は民主党に移った。

 

民主党になってはみたが

さて、いざ民主党になってみると、この政党に実行力がからっきし無いことが露呈される。上げないと言っていた消費税は上がったし、仕分けると意気込んでいた国家予算も大して削減できず「仕分け」という新語だけを生んだ。

外交においても中国の漁船1隻に情けない対応しかできず、末端の隊員から動画が流出する結果となり、国家を外敵から守る交渉力に欠けていることも露わになってしまった。僕が民主党の失政として何より印象に残っているのはこのsengoku38流出事件である。

そして何より、相変わらず首相は1年おきにコロコロ代わり続け、与党の支持率回復の策が「首相交代」しかないという悲しい事実がかなりの数の国民を失望の底に追いやったのではないかと思う。

選挙で勝てなさそうだから次の人に首をすげ替えるというのは、国民にとって理由としてはどうでもよく、政治や政策のことを置き去りにして政党保身を優先した意味のわからない行為だ。

それゆえ、改選期間の限界まで引き伸ばして行った選挙では大敗し、政権はふたたび自民党に移ることになったのだろう。

 

炎上耐性と安倍首相

今でこそ日本でなにより必要なのがこの能力だと言われるようになったが、安倍首相は早期からそれを見抜き、行動原理の最優先においているように思える。

過去の首相の炎上耐性が低すぎて失言や読み間違えで支持率を急落させた事例を参考にし、じっくりと大きな踏み間違えの無いように歩を進めていた。

僕はその姿にとても安心した。首相が1年おきにコロコロ変わる国がどう考えてもおかしいということは20代の青年にでもわかった。ちょっとぐらい政策に納得が行かないところがあっても、しばらくはやめないで続けてくれそうな人を選ぶことが自分たちの生活にとっていいのでは無いかと思えた。

甘い響きの政策を大きく喧伝した民主党は「甘い政策は結局実現しない」ということを結果として教えてくれたし、離合集散を繰り返している連中なんて頼りにならないということは新進党の崩壊をみてきた僕らは嫌というほど知っていた。

それゆえ、たとえ政策に甘い響きがなくともしばらくは一つの政党に安定して政権を持ってもらうのがいいんだろうなと思えたし、そういう思いを持っている人が多かったから自民党はそののちしばらく政権を保つことができたのだと思う。

 

枝野さんあらわる

その後の民主党のわけのわからなさは知っての通りだが、一人だけまともな人が居た。

枝野さんだ。

枝野さんは原発事故のときの毅然とした対応で国民の密かな支持を集めてきていたけれど、「謎の離合集散はもうしません」という、民主党に一番欠けているところを補った形で新政党を立ち上げた。「まさにそれだよ、枝野さん!みんなが野党に一番求めていることだよ!」とその視点の確かさには心から心服したのを覚えている。

 

これから先、政治がどうなっていくのか僕には難しくてわからないが、安易に離合集散しない二つ以上の勢力が競い合って進んでいってくれれば健全なのではないかなと僕は思っている。