こまどりロビン教育科

中学・高校の教育関係を中心に、実感と事例を挙げながら書いていきます

子どもが「感想」を文章にできない理由

「難しさ」は「自然概念からの遠さ」

幼児から始まって、児童・生徒がものごとを習得する難しさってだいたい人類史の発展の順番に沿っているなと思うことがある。理科で言えばニュートン力学の「力」って概念とか、人間の生得的な概念の中に生来に備わっている考え方ではないから、理解や習得に時間がかかるのだな、と。

ちなみに「力」はどうやって理解されていったのかと言うと、根本的に「加速度」って概念に注目しないと理解することができない。人間が真面目に加速度に注目しだしたのって歴史の中でも結構あとの方だ。ガリレイがはじめて加速度を厳密に測定し、全ての物体に等しく加速度が生じることを発見した。これが1600年ごろのことだから人類史で言えばだいぶあとだ。だから難しい。

「書き言葉」は意外と難しい

さて、そう考えたときに意外と難しいのが「書き言葉」の習得および、それによるコミュニケーションである。

喋り言葉を何かに記してそれの代替とする、という行為は人類史で2回しか起こっていないらしい(古代オリエントと古代中国。ほかの地区で文字が起こったのは、この2つの地域でやっていたことを真似て始まったと考えられるらしい)。というわけで歴史を算定すると、たかだか5000~6000年前のことだ。結局最後まで文字を持たなかったアイヌや南米みたな文化だってあるし、「言葉を書く」と言う行為は文明にとって必ずしも必要な行為ではないのだろう。

それにひきかえ喋り言葉の歴史はもっと古く、10万年くらいまで起源をさかのぼるのではないかと推察される。旧人類のネアンデルタール人も喋り言葉を操っていたと考えられるらしいのでとんでもなく歴史は古い。

そしてまた古文書を見るに、書き言葉の第一の目的はおもに「記録」である。史実の記録、商取引の記録、書き残しておかねばならないことについて記録することが人間の書き言葉の本質的な目的である。心情の吐露とかではないのだ。

ここらの事実から推察すると、喋りはじめて10年も経たない子供に「感想文を描け」というのは本当に酷なことなのではないだろうか。喋り言葉であれば心のコミュニケーションはできるものの、書き言葉となると「記録」するのが限界で、コミュニケーションに至らないのである。20年も30年も言葉を使い、書き言葉でコミュニケーションするのに慣れてしまっている大人にとっては「なぜ喋れるのに書けない?」と思いがちなのだが、子どもには本当に難しいのである。

社会性の面でも難しい

さて、子ども同士の社会的関係を見たときでも同じように、大人がふつうに持つような「公民意識」を持たせることはすぐには難しい。

元来、人間は数十人の組織の中で生活することをを基本としてきた存在だから、大きな組織の一部として自分を見たり、国家の一部として自分を見たりすることはそうすぐにはできない。それゆえ、発達の不充分な存在である子供に集団を形成させると「同質化と排除」という原始社会的な相互関係にどうしても陥ってしまうのだ。人類が歴史の後半でようやっと手にした近代民主主義なんてそうたやすく身にはつかない。これも人類が持つ宿命だろう。避けて通れない道なのだ。

というわけで子どもの集団のコントロールついて、大人が慣れてしまっているような原理をそのまま適用しようとする人がわりと多いのだが、それが思うほどたやすいことではないという現実はこの「人類史に比例」の考え方からある程度説明がつくようにも思う。