こまどりロビン教育科

中学・高校の教育関係を中心に、実感と事例を挙げながら書いていきます

子どもの言葉、そして沈黙から沈黙へ

沈黙からの脱出

中学生1、2年生なんてまだまだ子供だから、言葉の発達が不十分なことが多い(特に男子)。

心に思った感情があっても、それを言葉にする技術が拙すぎて、言語化できない。だから中学生を相手に話をしていると、「いま、自分は中等教育というより育児をやっているのではないか?」という気になることすらある。

その非言語的な不安定さを、少しずつ言葉に変えさせていく。待つ。ひとつずつきっかけを与えて、それが「言の葉」として成長するのを待つ。時間がかかる。でも待つ。だって言葉は自分で紡ぐしかないものだから、それよりほかにない。科学概念形成における構成主義と同じように、さまざまなアクティビティを通して、自分なりの沈思黙考を経て、彼/彼女らがたどり着くのを待つしかない。

さてこのあいだ、幼児は不安なときにまず先行して泣いてしまうが、心をうまく言葉にできないので、あとで泣いた理由を説明するときが理由がころころ変わってしまう、というブログを読んだ。

nomolk.hatenablog.com

なるほどこれが続いてるんだな、と思った。不安さばかりがが先行して、こころを言葉にできない中学生を見ると、これこそが子供の特質なんだなとしみじみと思う。

そんなことを考慮すると、饒舌すぎる母親に育てられた男の子は自己表現が苦手になるというのも、なるほどなあと合点がいく。子どもが心を言語化しようとしてみずからの内的世界を逡巡しているときに、「言葉」をぽんぽんと与えられてしまったら、子どもはそこに飛びついてしまうだろう。その言葉が正解にしろそうでないにしろ、飛びついた方が何より楽だし、怒られないで済むのだから。そうして子供は、自分の内面と言葉でじっくりと向き合う機会を奪われてしまう。

だからこそ、待つことが大事なのだろう。大人が言葉を与えることは、一見、子どもに思考をさせているように見えるが、実際には思考を停止させ、自ら紡ぎだすのを妨げているだけなのだ。だから、親も僕らも、逡巡している子どもに言葉を与える量とタイミングには極めて慎重になるべきなんだろうな、と思う。

 

そしてふたたび沈黙へ

しかしそうして、こころを言葉で表すことに習熟し、大人になっていった果てにも、待つのはやはり沈黙なのだと思うとき、なにかこう、やるせない気持ちになることがある。

たとえば複雑な失恋のあとみたいな感情が交錯して入り乱れているとき、こころを言葉にする能力が高ければ高いほど余計につらくなることはないだろうか。言葉と思考の渦に巻き込まれ、進んでも行き詰りしかないような。言葉が無ければ思考するのも早々にあきらめ果てられるはずなのに、言葉出れば出る分だけ、よけい苦しんでしまうような。

そんなとき、人は何に行きつくのか。

それは沈黙だろう。言葉を尽くしても果ては無いと気づいたその先にある、冷たい世界。

僕は大人だし、その世界のしたわしさも知っている。そして現在の僕にとっても、ざわついた心を落ち着かせるときに、その肌触りを思い出すことは欠かせない作業で、心の原型のようなものであるとも思う。

それを知ったうえで、「こころを言葉にする」ということを善きことのように子どもたちに教えるというのは、いささか罪深いことでもあるような、そんな気もしている。